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はじめての思考入門 その2

 『系統樹思考の世界』(三中信宏著、講談社現代新書)を読む。全体の70%ほど読んだものの、今回は読了できず、投了!

 

 

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

 

 

 

 「新書」という形態の悪しき部分が濃縮されたような本であった。記述があっちへフラフラこちへフラフラしていて、前段落でさも重要ように持ち出した話題をロクに展開せず、脇道へ逸れたと思いきやそれが本道でしたフィニッシュ!読んでいて、読み進める事の快楽が全く生じない稀有な本。

 

 一冊の本は、著者と編集者が二人三脚的に作り上げていくのだと思うのですが、この本がどのような経緯で出来上がったのか、気になる(いや、どーでもいいわ)。

 

 見るべきところがあるとすれば、「人間にとって、分類的な思考は馴染みがあるが、系統樹的な思考はそうではなく、無理をしてひねり出す必要があった」との洞察ぐらいか。

さかむけ!ワークライフバランス

  最近のサラリーマンであれば、一度は聞いたことがあるだろう、「ワークライフバランス」。この概念がどのように生まれ、本来何を目指すものなのかは、またおいおい調べてみることにしよう。とりあえず今夜は、この言葉のもとに、自分の職場で何が行われているかを書いてみよう。

 

  語るべきなのは、残業の抑制、あるいは残業の原則禁止である。これが窮屈で仕方がない。

  自分の職場では、ほんの数年前までは、当たり前のように残業していた。それがワークライフバランスを標榜し始め、「残業狩り」が始まった。ここで従業員としては当然、仕事量全体の削減を期待する。と言うか、今まで残業をしなければならないほどの仕事量だったのだから、残業を減らす事を目的にするのなら、仕事量を減らす事から始めるのが理にかなっている。

 

  現実はどうなったか。当然のように、仕事量はそのままである。以前と変わらない仕事量を、より少ない時間に詰め込まなければならない。自分はこれが恐ろしくて仕方がない。今までは割けていた検討時間、作業時間が割けないのだ。短期間で効率的に行う事が美徳なのはもちろん分かるが、しかし慎重に時間をかけて検討に検討を重ねなければならない事柄も確実に存在する。そういう事柄に限って、致命的な事柄なのだ。今の自分の職場では、この致命的な事に対しても、ロクに仕事量を費やせていない。

 

  この事は、従業員本人の、というか自分のやる気・達成感を大きく削いでいる。だって、自分が目標としているラインに到底及んでいないところで終了としなければならないのだから。あらゆる仕事に期限が定められているのは当たり前だとして、全ての従業員が全てのタイミングで、期限中に100%を出し切る事は難しい。予期せぬ事態はなぜか常に(予期して?)起こる。そんな時に、「無理してでもいいから自分の納得いくまて仕事を仕上げたい」との思いで残業をする事は、悪なのだろうか。

 

  「ワークライフバランス」とは名ばかりで、いつも釈然としない、何だか座りの悪い気持ちで帰宅するのである。

(続く)

初めての思考入門 その1

  波頭亮著『思考・論理・分析  「正しく考え、正しく分かること」の理論と実践』(産業能率大学出版部)を読了。

 

  正に教科書的である。文意が不明確な箇所が微塵もない。「思考とは、『思考対象に関する情報や知識を突き合わせて比べ、"同じ"か"違う"かの認識を行い、その認識の集積によって思考対象に関する理解や判断をもたらしてくれる意味合い(メッセージ)を得る』ことなのである」(p22)という定義は、(離れるにせよ寄り添うにせよ)正に出発点となるべき定義だろう。

 

  「ディメンション」、「クライテリア(分類基準)」、「MECE(モレなくタブりなく)」、「イシューアナリシス」など、自己啓発心(笑)を擽るカタカナワードも抜かりない。

 

  しかしそれでも、立ち止まる箇所も出てくる。論理的思考によって"正しさ"を論ずる際の金科玉条として著者が挙げる大命題が、「現実的に正しいことだけが正しい」(p150)である。非常に思考を誘う一文である。本文中での語られ方も、なんだか浮いている感じがする。論理的に正しいことでも、現実的に考えておかしいことだったら、それは正しくないことだ、というとても常識的な文脈と言えなくもないのだが、しかし、なんだかしっくりこない。「現実」の追認しか(論理的)思考には許されていないような響きがある。そもそも「現実」とは何か。「現実」と「思考」と「正しさ」はどのような関係を結ぶのか。

 

  全ての教科書がそうであるように、本書も、落書きをせずにはいられない本であった。

人は〇〇として、大地に住まう

  国分功一郎著『暇と退屈の倫理学』を再読中。いわゆる暇倫である。

 

  それにしても『中動態の世界』もそうだったが、この人の本にはなぜか、注書きに想像力を掻き立てられる。定住革命を扱った章での注(注書きを巻末に集めている本書にとって例外的に「本文の直後に」記載されている注書き!)が特にそれ。「人類史的に定住がちっとも当たり前でないにもかかわらず、定住中心主義的な思想を展開した哲学者」としてハイデッガーが召喚される。国分氏の筆致には、「ハイデッガーが思考した時代には定住が人の生活の当然の前提であったから、それもやむないこと」という雰囲気が感じられた。

 

  むしろ、このように展開すべきではないだろうか。つまり、本注中にも述べられてる「人間は、住むことをはじめて学ばなければならない」というハイデッガーの言葉のもつ射程をこそ、定住革命が行われるそのモメント、その起源にまで拡大させねばならない、といったふうに。本書においても当然、定住革命が人に死の観念を惹起させた旨述べられている。死と不死、現前と不在、現実性と可能性…。哲学、いや、人の思考を駆動してきたものの起源が定住革命でありえるのだ。その起源を辿り直すこと、すなわち「住むことをはじめて学ぶ」ことこそが、ハイデッガー的な存在史の思考にこそ相応しい、といったふうに。

「ただいま〜」って言いながら扉開けてみたい。

  『スナック研究序説 日本の夜の公共圏』を読了。こういう風俗の研究はおもろい。「一人でふらっと飲みに行く」ってこと習慣にしてみたいと思っていたとこだったので、なんだかタイムリーな気がした。

 

  やはり法整備関係の話が多いなか、第五章「カフェーからスナックへ」の章が特に興味深かった。「スナック前史」としての「カフェー」には、文化的な側面と性風俗的な側面の「赤線的混交(!)」がみられた、とのこと。本文中では言われていないが、その性風俗的な側面が法律の網を潜りながら徐々に脱色されていったのが現在のスナックというところか。

 

  続く第六章「〈二次会の思想〉を求めて」も良かった。「ワシらがよくやる二次会と全然ちゃうやんけ!」と思いつつ、〈酒〉と〈女〉と〈イエ〉にまつわる話であり、まだまだ拡張できそうな予感である。

 

  副題にあるような「夜の公共圏」としての面はあまり前に出てこず、その辺がちと物足りなくもあった。「ショッピングモール」、「(マイルド)ヤンキー」等と並び、「スナック」も地方・郊外を語るタームの仲間入りである。

次に読みたい本リスト

忘れちまいそうだからなー。

 

①『精神の生活  下』ハンナ・アーレント著、佐藤和夫訳、岩波書店

  上は読んだ。一息おいて、上をざっと復習してから読もう。

 

②『いかにして思考するべきか?言葉と確率の思想史』舟木亨著、勁草書房

  勇んで買ってしまった。がんばって読もう。

 

③『だれのための仕事-労働vs余暇を超えて』鷲田清一著、講談社学術文庫

  仕事に対してこういう哲学・思想面からのアプローチすることは、実際にサラリーマンである自分からすれば、危険!

 

④『社交する人間-ホモ・ソシアビリス』山崎正和著、中公文庫

  現実に社交的でない自分がこのタイプの本を読むことは、やはり危険!

 

 

  《今後》

  ①や②のように、「思考」「判断」などをテーマにしたものを、哲学・思想系と自己啓発系の両面から攻めていきたい。しかしこれもやはり…。そもそも自分の思考力に自信がなくなったからこのテーマを読もうとしているのだけど、ますます迷い込みそうで、危険!!

  

それは選好か、責務か。

 東浩紀『ゲンロン0』読了。「観光客の哲学」と銘打たれているなか、自分は「家族」がらみの話が印象に残った。「ハイデッガー的な死の必然性から、生の偶然性へ」。いろいろイメージが湧くスローガンである。

 

 それにしても、それにしても。ドストエフスキーを論じた最後の章である。作家が書こうとしていたのは、「ユートピア主義者」→「テロリスト」→「シニカル・ニヒリスト」→「不能の父」へと至る弁証法だとされる。

 

 私たちは、「不能の父」になりたかったのだろうか。肯定すべき偶然性の名のもとに疑似的な「家族のようなもの」を自らの下に集め、「不能の父」は何をするのだろうか。地方都市に住む私が、疑似家族的なものとして思い浮かべることができるのは、せいぜい、映画『ワイルドスピード』シリーズの主人公ドミニクの下に集まるならず者ぐらいである。彼らは何をしているか。一仕事終えた後のバーベキューである。バーベキューが抵抗の証になるのだろうか。そんなことはない。バーベキューは肉を焼くことしかできない。

 

 なぜ父には「不能の」という形容詞がつきまとうのか。もちろんこれは象徴的な配慮なのだが、しかし、誰の記憶においても明らかなように、誰彼かまわず、父は不能であった。私の記憶の中の父は、あなたの記憶の中の父と同じように、不能であった。

 

 みなと同じように、私も努力してきたはずだ。父がその精神形成をした時代よりも、私が精神形成をした時代の方が、見通しがきくはずだ。私の父は高卒だが、私は大学を卒業した。父が持っていたレコードよりも、私はたくさんのレコードを持っている。私は父よりも背が高い。誰も彼も、皆が、自分が知っている父とは違う父になろうとしてきたはずだ。

 

 にもかかわらず、私が父になるとしたら、それはやはり「不能の父」でしかないのだという予感から逃れることはできない。